蘭英紀行

この春、老妻と蘭英旅行にでかけた。オランダのライデン、そのあとは英国のケンブリッジ、そこを拠点にロンドンにも足しげく通った。

328日昼前、KLM便にて出国。スキポール空港に到着後、ライデンの旧市街のホテルに投宿する。久しぶりの街並みや運河が懐かしい。翌朝、近くの「カマリンオンネス研究所」を尋ねる。今から30年以上も前、深瀬研の助教授のとき文部省在外研究員として留学したところだ。数年前に統廃合され、今は法学部のキャンパスになっていることは知っていた。確かに、正面上層には「KAMERLINGH ONNES」の金文字があるだけで、往時あった「LABORATORIUM」という文字がない。建物の中はまるっきり改修され、自分の居室がどこにあったのか、当時の面影はどこにも見当たらない。廊下にはオンネスの横顔を描いた肖像画やアインシュタイン、ローレンツ、エーレンフェスト、エディントンなどの写真パネルが掛けてある。1908年(明治41年)の夏のある夕刻、小さなコップ一杯にも満たないヘリウムの液体がここでつくられた。絶対ゼロ度に近い極低温を人類が手にしたのだ。教授就任から26年の歳月をかけてそれを実現した人物の名前が建物に冠してある。目の前の学生たちは無頓着で明るく活気に満ちている。空はどこまでも青く澄み亘り、彼ら彼女らの自転車の傍にある運河を時折伝わってくる風がなんともさわやかで心地よい。

午後は、家族5人で暮らしていた郊外に向かった。当時借りていた家も2歳の次男が落ちて救い出した運河もそのままだ。来訪された金研の諸先輩(小松、小谷、黒田、前川)や教え子(小菊)との晩餐、冷えたビール、ニューヘリン(初鰊のレモン酢添え)、家内の手料理など想い出す。子供たちがよく遊んでいた近くの牧草地にでると、遠くにみえる風車、運河を行き交うポンポン船。昔のままの風景だ。

翌朝、英国に渡りケンブリッジへ。友人に紹介されたカレッジのゲストハウスで旅装をとく。調度品が完備した広い居間と寝室の二部屋、それに共用の台所と食堂がある。イングリッシュガーデンに囲まれた閑静で快適なところだ。ここに10連泊する。

このケンブリッジという古い町には30余のカレッジがある。旧市街地の西側には有名な聖ジョーンズ、トリニティ、キングス、クイーンズなど、路地を隔てた東隣には、70年代初めまでキャベンディッシュ研究所があったはずだ。

ゲストハウスを出て閑静な地域を歩いていくと、ほどなく数学のキャンパスにでる。通りを挟んだ広い敷地に現在のキャベンディッシュがある。受付で記帳を済ませて二階の細長い資料室に入る。前半部は、1871年(明治4年)の創設に関わったマックスウェルのノート(購入すべき実験装置や価格表など)にはじまって、トムソンの電子の比電荷測定装置、ラザフォード所長時代の、霧箱や真空管式計数器、宇宙線観測、中性子の発見、リチウム原子の核変換など原子核物理の歴史そのものだ。日を改めて、X線・電子線回折、低温物理、マイクロ波天文学など後半部も見学する。その一部を紹介しよう。

まずカピッツァのヘリウム液化機が目に入る。30年代初頭のものだ。装置内部の詳細は陳列ケースの外からでは分からないが、10K近くの低温まで作動する膨張エンジンと最終段のジュール・トムソン弁が組み込まれている筈だ。ライデンの複雑で大掛かりな多段カスケード方式に比べてじつにコンパクト、本体の高さは私の背よりも低い。彼の斬新なアイデアは戦後すぐMITのコリンズによって引き継がれ、リトル社が100機以上を生産する。52年(昭和27年)金研も購入した訳だが、そのルーツがいま目の前にある。感慨深い。低温物理学をライデンの独占物から解放した歴史的なマシンである。

隣には銅のフェルミ面の模型が置かれている。多重連結したその形状は、ピパードのマイクロ波を使った異常表皮効果の実験が決め手となったものだ。彼の肖像写真もある。苦虫を噛潰したようなその神経質な顔が、学生の頃歯が立たなかった彼の超伝導コヒーレンスに関する論文の難解さと妙に符合して、なにか可笑しい。隣の写真は好々爺然としたシェーンベルグ、金属のフェルミ面研究の大御所だ。1975年ヘルシンキでの低温物理の国際会議で武藤先生が私を紹介して下さったことを懐かしく想い出す。

カレッジでとくに印象深かったのがトリニティだ。数年前に老妻と一緒に観た、インド人数学者ラマヌジャンの映画のロケにも使われていた。雨の中で喀血して倒れるシーンや彼の神がかった定理を証明していくハーディの姿を鮮明に憶えている。クイーンズでは白いクロスの上に食器を並べて晩餐の準備をしているところに出くわす。奥にあるのは教授や学寮長らのハイテーブルのようだ。また、30代の若さで病に斃れたローザ・フランクリンが学んだニューナム、芝の美しいキャンパスの奥にあるその実験棟を訪ねる。近くの閑静な邸宅地を散策しながら旧市街へ。途中、右手にダーウィンを眺め、ケム川の傍にある「アンカー」で冷えたビールをいただく。お気に入りのパブだ。

さて、ケンブリッジから電車で一時間少々のロンドンでは、英国議会、ウエストミンスター寺院、トラファルガー広場、バッキンガム、ケンジントン、ロンドン塔、タワーブリッジ、テートギャラリーなど。オックスフォード街での老妻のショッピングにも辛抱強く付き合った。

地下鉄グリーンパーク駅を出てピカデリー通りを左に折れたところにファラデーで有名な王立科学院がある。90年代中頃ここの所長を務めたピーター・デイが、ファラデーの机や椅子を使っていることを少し自慢げに私に話してくれたことを想い出す。また、マックスウェルやローザがいたロンドン大学キングス校のあるストランド地区まで歩いて1時間以内で行けそうだ。

ロンドンでは漱石の留学時の下宿も訪ねた。テームズ川の南側のクラッパムコモン駅からほどなく、築200年余の建物が両側に続くチェイス通りに出る。少し行くと左の建物の壁面に< NATSUME SOSEKI 1867-1916 Japanese Novelist lived here 1901-1902 >とのプレートが目に入る。この向かいの建物には以前、多くの日本人が訪れた漱石記念館があった。85年にはオックスフォード留学時の徳仁陛下も来館されている。通りには昔懐かしい赤い郵便ポストが立っている。結核性脊椎カリエスの痛みに呻き悶え「僕ハモーダメニナッテシマッタ」、という子規にすこしでも苦しみを忘れさせてやろうとユーモア溢れる書簡を投函したポストかもしれない。また研究実習のため王立科学院を訪れていた池田菊苗に啓発された漱石は、文学を「科学」すべく「文学論」のノート作りに向けて格闘する。それが亢じてノイローゼ気味になるのだが、心配した五十がらみで太っちょの下宿の主人ミス・リール婆さんから「自転車に御乗んなさい」といわれてしまう。転倒し乳母車にぶつかりながらも練習に励んだラベンダーヒルへの坂道やクラッパム公園もすぐ近くにある。120年余前の情景がそのままだ。まるで今にも目の前の下宿から漱石が出てきそうな気がした。

2週間の旅行を終え、410日午前、KLM便にて帰国。

 

 

付記:最近「… S. Obaとは誰か」と題する小論を上梓した。(日本物理学会誌 vol.74, No.9, 655, 2019) マンチェスター時代のラザフォードに師事した謎の人物が、明治専門学校(現、九州工業大学)や米沢高等工業学校(山形大学工学部)の校長として、金研にも縁浅からぬ西山善次をはじめ多くの逸材を輩出した大場成実であったことを明らかにしたものである。ご参考まで。