作家になる前の無名の漱石、すでに俳人として有名であった子規、物理学を学ぶ学生の寅彦、これら三人の生きざまを漱石留学期に焦点をあてて描くノンフィクション。ロンドン、東京の根岸と本郷、高知を結ぶ交友のあとを、三人が残した日記、手紙、随筆、小品などを通して時間軸に沿ってたどっていく。

 日記や俳句もじつに面白いが、何と云っても一番面白いのは、漱石の手紙だ。子規、寅彦、妻の鏡子、もとの学友たちのものはどれも第1級の作品。そこには、かれの真面目さ、頑固さ、それゆえの滑稽さがあふれており、ひと恋しさ、優しさがある。

 三人の出会いからはじめ、漱石の英国への出立とロンドンでの生活あれやこれや、病床に伏してなお旺盛な執筆を続ける子規、妻夏子と幸せな日々をおくっていたと寅彦と夏子との別離など、まずは留学期の前半部を描く。後半では、寅彦は夏子と再会し自分も病をえて休学、家族3人離ればなれに寄り添って生きていく。子規は日記(仰臥漫録)や連載記事(病牀六尺)書き、漱石に手紙を送る。漱石は返事を書き、留学最後の年には、文学を科学するという大言壮語のもと下宿に籠ってノート作りに没頭、やがて神経をすり減らしてしまう。スコットランドへの静養からロンドンに帰ってくると、子規の訃報が届いていた。また復学した寅彦のもとにも訃報が届く....


 

・プロローグ

・目次

・サンプルページ

・ペーパーバック版への正誤表


プロローグより

明治三十三年九月八日午前八時ごろ、横浜{埠頭|ふとう}にて一隻の大型船が錨をあげていた。プロイセン・ブレーメン号、二本マスト、二本煙突、排水量三千トンである。晴れあがった空に汽笛をひびかせ、ラ・マルセイユを{奏|かな}でながらゆっくりと岸を離れて行く。風おだやかにしてこれからの長い航海がはじまろうとしている。

 

 英国留学に向かう夏目金之助こと漱石は、{舷側|げんそく}にもたれたままじっと岸壁を見つめていた。そこではハンカチを目にあてた鏡子夫人とともに帝大生の寺田寅彦が別れを惜しみ、いっぽう根岸の{庵|いおり}では親友の正岡子規が病床に{臥|ふ}せっていた。

 

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 熊本第五高等学校の英語教師であった漱石は、国費留学生として英国の都ロンドンに二年あまり滞在する。そこでさまざまな人々と出会い、異質な文化に触れながら新世紀を迎えた時代を{嗅|か}ぎ取っていく。「西洋」というものに戸惑いながらも{諂|へつら}うことなく真っ正直に向き合い、ときには{毅然|きぜん}と{対峙|たいじ}することもある。また下宿に{籠|こ}もり続けて、英文学を「科学」するためのノート作りに没頭する。その結果、神経をすり減らしてまわりの人たちを心配させてしまう。

 

 いっぽう、帝大を中退し俳句や短歌という短詩形文学の革新をとげつつあった子規は、母・{八|や}{重|え}や妹・{律|りつ}に介護されながら、かろうじてつながった命をまっとうしていく。育てた弟子たちに囲まれて筆を走らせ、ときにはみずから口述して作品を発表していく。

 

 寅彦は物理学科の学生で、妻・夏子と本郷西片町に暮らしていた。バイオリンを弾き絵をかいたりする幸せな日々をおくっていたが、それもつかの間、身ごもった妻の体には病魔が忍び込んでいた。また自らも病をえて休学、郷里の高知で離ればなれではあるが、病妻と幼子に寄り添って生きていく。

 

 漱石、子規、寅彦はそれぞれに日記をつけ、手紙を交わし、また随筆や小品などを遺している。そのような多くの資料に目を通していくと、かれらとまわりの人たちの素顔や生きざまが明治という時代の空気とそこをゆったり流れている時間のなかに見えてくる。

 

 わたしは、資料ファイルが入った端末をもって、かれらの{足跡|あしあと}をたどる旅にでかけた。本書はその旅の記録を{紡|つむ}いだノンフィクション・ドラマである。


目次

第1章 出会い

・寅彦と漱石の出会い: 「夏目先生、俳句とはいったいどんなもんですか」.根岸庵を訪う記.

・漱石と子規の出会い: 子規、喀血. 大学へ進学、それぞれの道へ. はて知らずの記. 愚陀仏庵での句会. 俳句や短歌の革新.

 

第2章 明治33年

・コレハ萎ミカケタ処ト思ヒタマヘ

・夏子、上京: 結婚. 西片町での新居. 漱石師来り、共に子規庵を訪う.

・遥か英国へ: 横浜発. 船上にて. ノット夫人との再会. ジェノアからパリ、そして倫敦へ.

・子規庵では

・英国滞在(その一): ケンブリッジはどうか. 仙台の「百ズー三」など. 倫敦での生活事はじめ. 小石川のような処. 倫敦でのクリスマス.

 

第3章 明治34年前半

・英国滞在(その二): 霧アル日太陽ヲ見ヨ. 彼等ハ人ニ席ヲ譲ル. 女皇死去ス. ウチノ女連ハ. しばしば観劇に通う. 子規尚生キテアリ.

・墨汁一滴

・寅彦と夏子: 夏子、喀血. おや、どんぐりが. 別離. 出産.

・倫敦消息

・英国滞在(その三): グラスゴー大学とキングスカレッジ. 池田菊苗と王立研究院: リール姉妹の下宿へ引越し. アンパンノ如ク丸イ. クレイグ先生.

 

第4章 明治34年後半

・寅彦と夏子の再会: 寅彦、休学. 夏目先生より書信あり. 高知がえりと夏子の日記.

・仰臥漫録 僕ハモーダメニナッテシマッタ

 

第5章 明治35年

・寅彦の日記

・英国滞在(その四): 「それやこれや」とは何の言訳やら. 漱石、ドン・キホーテたらん! 日英同盟締結と文明批評.

・病床苦語

・貞子の初節句

・ラストインタビュー

・病床六尺、これが我世界である

・英国滞在(五): 下宿に籠る. 夏目、狂セリ. 自転車にお乗んなさい. ピトロクリの谷は秋の真下にある.

 

第6章 別れ

・子規の絶句

・筒袖や秋の柩にしたがはず

・夏、危篤の報あり

・漱石先生、新橋に迎ふ

・子規居士の墓前にて

・再び「どんぐり」

 

エピローグ

 

漱石のその後

寅彦のその後

あとがき

参考文献

底本

地図

年譜 


サンプルページ

第一章 出会い

寅彦と漱石の出会い

 

 時は明治二十九年、西暦で一八九六年、高知県立第一中学校を卒業し、九月には熊本の第五高等学校に入学する青年がいた。寺田寅彦、十八歳の秋のことだ。 

 

 日記によると、八月二十八日午前高知を出帆、紀淡海峡をぬけて翌朝神戸港につく。上陸していろいろ見物に出かけ、日が暮れてふたたび出港。瀬戸内を西進、{讃岐|さぬき}の多度津を経由して翌日の夜遅く門司に着く。駅前の旅館に泊り、翌朝鉄道に乗り換えて熊本に到る。今では信じがたいような三泊四日の旅である。

 

 寅彦が入学した五高は、市の中心部から北東側の黒髪地区に明治二十年設立された官立の高等学校である。現在、熊本大学のキャンパスの一角に五高記念館がある。

 

 ・「夏目先生、俳句とはいったいどんなもんですか」

 

 当時の高等学校や大学は九月入学制をとっており、夏休み前が学年末にあたる。寅彦は二年生の学年末試験が終わったころふたりの先生を尋ねている。ひとりは物理学が専門の田丸卓郎、もうひとりが英語の夏目金之助である。後年、これらの恩師の思い出をつぎのように語っている。

試験を「しくじったらしい」二三人のためにそれぞれの受け持ちの先生がたの私邸を歴訪していわゆる「点をもらう」ための運動委員が選ばれた時に、自分も幸か不幸かその一員にされてしまった。

(「夏目漱石先生の追憶」)

 もちろん両先生ともそういった陳情を受け入れるとも受け入れないともいう筈はなかったのだが、そのあとでの雑談が寅彦の人生に彩りをそえることになる。

 

 まず田丸は、バイオリンを取り出してそのメカニズムについて説明し、実際に「君が代」を演奏してみせたようだ。「まったく子供のように急にこの珍しい楽器のおもちゃがほしくなった」寅彦は、親からの送金を工面しながら定価九円のバイオリンを買っている。(「田丸先生の追憶」)

 

 いっぽう、白川河畔藤崎宮近くの夏目の私邸を訪ねたときのことだ。俳句というものに関心を抱きはじめていた寅彦は、「俳句とはいったいどんなものですか」と思いきって問うと、先生は

* 扇のかなめのような集注点を指摘し描写して、それから方散する連想の世界を暗示するものである

* 秋風や{白木|しらき}の弓につる張らん、と云ったような句は佳い句である

(「夏目漱石先生の追憶」)

と俳句の本質を簡潔にのべて、向井{去来|きょらい} の句を例にあげている。さらに

* 俳句はレトリックの{煎|せん}じ詰めたものである

* 花が散って雪のようだと云ったような常套な描写を月並という

* いくらやっても俳句の出来ない性質の人があるし、始めからうまい人もある

  (同右)

とも云っている。

 

 ここにレトリック(rhetoric)とは、適切な言葉を選び、それを効果的に使って表現するための技法(修辞学ともいう)のことだが、漱石のこれらの言葉が*レトリックを煎じ詰めたもの*になっている。

 これ以来、寅彦は俳句に夢中になる。夏休みに帰省した折に手当たり次第に材料を見つけては二三十句をつくり、新学期のはじまる九月にはそれらをもって夏目先生を訪ねている。返してもらった句稿には、短評や類句を書き入れたり、添削したりして、そのなかの二三の句の頭に○や○○が付いていた。(同右)

 

    それからというもの週に二度も三度も「まるで恋人にでも会いに行くような心持」で先生の家に通った、と語っている。

先生はいつも黒い羽織を着て端然として正座していたように思う。結婚してまもなかった若い奥さんは黒ちりめんの紋付きを着て玄関に出てこられたこともあった。田舎者の自分には先生の家庭がずいぶん端正で{典雅|てんが}なもののように思われた。

(同右)

と回顧している。この「若い奥さん」とは、貴族院書記官長・中根{重一|じゅういち}の長女、鏡子のことである。白川河畔に新居を構えていた鏡子は二十歳で、漱石よりも十歳若く、寅彦よりも一歳年上である。漱石も好きだった{葛餅|くずもち}などで寅彦をもてなしたようだ。どちらも大の甘党である。

 

 やがて寅彦の句稿は、漱石のものと一緒にして東京の{下谷|したや}区{上根岸|かみ|ね|ぎし}町の正岡子規のもとに送られるようになる。子規はそれらに朱を加えて送り返す。

 この郵便による添削指導は、漱石が松山で教師をしていたときにはじまったものだが、これに新たに寅彦が加わったことになる。つまり子規が師匠で、漱石は弟子、寅彦は孫弟子という関係ができあがる。熊本時代の夏目金之助は、俳号「漱石」としてもっとも脂がのった時期であり、すでに俳人・漱石としての地歩を固めていたようである。

 

 ここでエピソードをひとつ紹介しておこう。そのころの漱石の句に、

 

落ちさまに{虻|あぶ}を伏せたる椿哉

 

というのがある。郷里に帰省する途中泊った門司の宿で友人と夜遅くまで語りあったことを、後年の随筆「思い出草」に記している。

 それによると、椿の花が散るとき、最初はうつ伏せの状態で落下しはじめるとしても途中で反転して{仰|あお}むけになるのではないか、との疑問をずっと懐いていたかれは、四十代後半になって椿を植えてじっさいに花の散り具合を観察している。その結果、高い木ほど仰むけに落ちる確率が高く、低い木では空中で反転する間がなくなりうつ伏せのままの確率が高くなることを実証している。

 これは物理学でいう剛体の落下運動の問題だ。すこし注釈を加えておくが、椿の花をバドミントンで使うシャトルコックと{見做|みな}すとわかりやすいであろう。つまり花の基部をコックに、花弁をシャトル(羽根)に置き換える。経験上だれもが知っているように、コックを下側にして落下する。それは全体の重心がコック側に{偏|かたよ}った位置にあるからにほかならない。仮に落ちはじめにコックあるいは花の基部が上側にあった場合、反転してもっとも安定な姿勢で落下するようになる。しかし低木の場合、反転する前に地面についてしまう。これらの現象は、花の形状と空気抵抗、重心の位置、剛体としての慣性モーメントで決まるのだが、実際はなかなかに複雑な物理の問題でもある。

 

 さて、漱石の句に戻ろう。花芯にしがみついている虻は、自分自身の重さのため重心を花弁が開いた方向にずらし反転確率を小さくして、結果的に自分を閉じ込める確率を高くしてしまう。そんなこととはつゆ知らず、あわて驚いている虻の姿が目に浮かぶようだが、漱石の句は読み手の自由な想像にゆだねているように思われる。

 

 寅彦はその随筆のおわりに、

こんなことは右の句の鑑賞にはたいした関係はないであろうが、自分はこういう{瑣末|さまつ}な物理学的の考察をすることによってこの句の表現する自然現象の現実性が強められ、その印象が濃厚になり、従ってその詩の美しさが高まるような気がする。

(「思い出草」)

と書いている。ここには一瞬の現象を写し取る漱石の確かな眼識と想像力、そして寅彦の科学者としての実証的な視点がある。

 

 ところで、寅彦は大学で造船学などを修めるつもりで「工科」を選択していたのだが、もともと芽生えていた自然科学への興味が田丸の影響でより強まり、選択を「理科」(物理学)に変える。また語学も好きであった寅彦は、夏目先生の英語の授業風景をつぎのように語っている。

 

教場へはいると、まずチョッキのかくしから、鎖も何もつかないニッケル{側|そく}の時計を出してそっと机の片すみへのせてから講義をはじめた。何か少し込み入った事について会心の説明をするときには、人差し指を伸ばして鼻柱の上へ少しはすかいに押しつける癖があった。(中略)

 

 科外講義としておもに文科の学生のために、朝七時から八時迄シェークスピアのオセロを講じていた。寒い時分であったと思うが、二階の窓から見て居ると黒のオーバーにくるまった先生が正門から泳ぐような恰好で急いではいって来るのを「やあ、来た来た」と云って{囃|はや}し立てるものもあった。黒のオーバーの{釦|ぼたん}をきちんとはめて中々ハイカラでスマートな風采であった。しかし自宅にいて黒い羽織を着て寒そうに正座している先生はなんとなく水戸浪士とでもいったようなクラシカルな感じのするところもあった。

 

  (「夏目漱石先生の追憶」)

 

この授業風景を

 

講壇の隅にのせおくニツケルの{袂|たもと}時計を貴しと見き

春寒き午前七時の課外講義オセロを読みしその頃の君

 

と詠んで師を追悼している。(「思ひ出るまゝ」)

 

 

 

根岸庵を訪う記

 

寅彦は明治三十二年七月に五高を卒業、九月には東京帝国大学理科大学物理学科に入学する。その少し前の五月、漱石は子規へつぎのような手紙を書いている。

 

拝啓 俳友諸兄の近況は「{子規|ほとゝぎす}」紙上にて{大概|たいがい}{相分|あいわか}り{候|そうろう}。いつも御盛りの事{羨敷|うらやましく}{存候|ぞんじそうろう}。小生は{頓|とん}と振い{不申|もうさず}。従って俳句の趣味日々消耗致すやうに{覚申|もうしおぼえ}候。当地学生間に多少流行の気味{有之|これあり}候。寅彦というは理科生なれど{頗|すこぶ}る俊勝の才子にてなかなか悟り早き少年に候。本年卒業上京の上は定めて御高説を承りに貴庵にまかり出る事と存候。よろしく御指導{可被下|くださるべく}候。

(書簡 明治三十二年五月十九日付)

 

 入学式のすこし前の九月五日、寅彦は下谷区上根岸八十二番地に子規を訪ねる。京橋から鉄道馬車で上野まで行き、そこから動物園、博物館、{大猷院|だいゆういん}尊前を通り、さらに踏切を渡って桜木町に出る。巡査に尋ねて{鶯|うぐいす}町の札を見つけ、やっと正岡常規という門札のある戸口を入っていく。

 

玄関にある{下|げ}{駄|た}が皆女物で子規のらしいのが見えぬのがまず胸にこたえた。外出という事は夢のほかないであろう。{枕上|まくらがみ}のしきを隔てて座を与えられた。初対面の{挨拶|あいさつ}もすんであたりを見回した。四畳半と{覚|おぼ}しき{間|ま}の中央に床をのべて糸のように{痩|や}せ細ったからだを横たえて時々{咳|せき}が出ると枕上の白木の箱のふたを取っては吐き込んでいる。青白くて{頬|ほお}の落ちた顔に力なけれど一片の{烈|れっ}{火|か}{瞳底|どうてい}に燃えているように思われる。左側に机があって俳書らしいものが積んである。机に{倚|よ}ること事さえかなわぬのであろうか。右わきには句集など取り散らして原稿紙に何か書きかけていた様子である。いちばん目に止まるのは足のほうの{鴨|かも}{居|い}に{笠|かさ}と{蓑|みの}とをつるして笠には「西方十万億土順礼 西子」と書いてある。右側の障子の外がホトヽギスへ掲げた小園で奥行き四{間|けん}もあろうか{萩|はぎ}の元を束ねたのが数株心のままに茂っているが花はまだついておらぬ。

 (「根岸庵を訪う記」)

 

 このように子規庵の第一印象を記している。このあと、漱石と子規の学生のころの話、新聞「日本」や「小日本」の挿絵などを描いていた中村{不折|ふせつ}という画家のこと、師の浅井{忠|ちゅう}のこと、果ては画壇の長老たちへの辛辣な批評などとつづく。

 

話半ばへ老母がコーヒーをくんで来る。子規には牛乳を持ってきた。汽車がまた通ってつくつくほうしの声を打ち消していった。

(同右)

 

 さらに話が音楽のことなどに及んだあと、

 

空が曇ったのか日が上野の山へかくれたか畳の夕日が消えてしまいつくつくほうしの声が沈んだようになった。からすはいつのまにか飛んで行っていた。また出ますというたら宿はどこかと聞いたから一両日中に{谷中|やなか}の禅寺へこもることを話して{暇|いとま}を告げて門へ出た。(同右)

 

 文中にある老母とは八重のことだが、子規は八重と妹の律から献身的な介護を受けていたのである。かれの病気のことは漱石からいろいろと聞いていたであろうが、実際に会ってみて圧倒されたことであろう。この訪問は寅彦にとって、俳句という枠をこえた子規という人物に出会う契機にもなった。

 

 漱石につづいてもうひとりの師の知遇をえた寅彦は、

 

実際子規と先生とは互いに畏敬し合った最も親しい交友であったと思われる

 

と記している。(「夏目漱石先生の追憶」)

 

------------ (つづく)------------

 


ペーパーバック版への正誤表

正誤表     誤    正

p.37  9行目  生来   年来

p.275 11行目 弾性論  音響論

p.285 2行目  伸子   紳子

   4行目  一男   二男

p.310 4行目  (url)   https://www.ntkt.jimdofree.com